今日は、朝飯を食べて、玉野の深山公園を歩いた。日ごろの運動不足がたたって、小1時間の散歩コースを歩いただけで、足がだるい。今年は、熊野古道の奥駆けの道走破を目指しているにもかかわらず、この体たらくである。4~5月の肉体改造月間をどう過ごすか。大きな課題が存在していること思い知ったのである。
深山公園の帰り、上様のご要望でうさぎ屋による。愛用している赤インクのボールペンのインクが終わっているの思い出し、交換してもらう。87円なり。昼飯はケンタッキーにしようということになって、高柳のケンタッキーで、僕はチキフィレサンド、食べ比べドラムセット(醤だれチキンとオリジナル・チキン、フライドポテト)、上様はツイスターを買って帰宅。
上様は昼飯も食べずに、ビッグアメリカンショップに洋服を見に行った。ケンタッキーを食べているところへM戸さんから電話があって、「お前、午後はあいとらんか?N島さんと蓮池薫さんの講演を聴きに行くことにしていたんだけど、人権連の、三門のH田さんがお亡くなりになって、N島さんが行けなくなったんよ。民団のYさんから誘われてるんで、欠席するのは申し訳ないから誰かを探そうということになって電話したんだけど・・・」という。『蓮池さんの講演』にひかれて参加させてもらうことにした。
「そうそう、M戸さん電話を借りて申し訳ないんだけど、今朝0時にO生協のN藤さんが亡くなって、明日の夜が通夜で、火曜日の11時から葬儀をとり行うそうですよ。」
「エーっ!?療養中なのは知ってたけど、そんなに悪かったんか・・・。さっきK徳さんと電話で話したところだけど、何も言ってなかったけどな・・・。お前は誰から聞いた?」
「今朝早くK下さんが電話してきて教えてくれたんですよ。」
「そうか」
12時にM戸さんを迎えに行って、H田さんのところにより、N島さんからチケットを受け取り、さん太ホールに向かう。
今日は、岡山韓国商工会議所主催で、同商工会の創立50周年記念行事として『おかやま韓日文化まだん』が、さん太ホールで開催されるのだ。その目玉の一つが蓮池薫さんの「韓半島と私」と題する記念公園だ。
入り口でもらったパンフレットによると、岡山韓国商工会議所の会長はRさんで、ゲンダイホールディングス株式会社の代表取締役副会長兼専務である。ゲンダイグループは知らない人はいないパチンコ屋である。僕の記憶が確かならば、年商は600億円を超える。潰れていくパチンコ屋も多い中で、安定した経営を続ける手腕はたいしたものである。
岡山韓国商工会議所は、1961年9月16日、信用組合岡山商銀を設立することを目的に設立され、在日韓国商工人の経済活動の支援や、韓日両国の経済交流の架け橋的な役割を担い、今年満50周年を迎えた。開かれた文化事業を通じ他聞か共生社会を確立すべく貢献したいという決意をこめて、今日のイベントを企画したということである。
ちなみに「まだん」という言葉は、韓国語で「人が集いあう広場」という意味があり、「考え方も育ってきた環境も違う人々がある一つの場所に集まると、そこでは様々な物事のやりとりが始まり、人が行き交い、新たな交流が始まり新しい文化が生まれる。人が集い、出会い、笑いが生まれる場所からは争いは起こらない。誤解や偏見は顔の見えない隠れたところに潜む。」という思いで、人々が集まり、交流が行われる場所を持つことにしたのだそうだ。
オープングは、「韓国詩・日本詩&コンサート」と題して、フリーアナウンサーの森田恵子さんの詩の朗読と、パンフルートの今井勉さんとピアノの西村一穂さんの演奏が行われた。韓国詩は、今日の講師である蓮池薫さんが翻訳している。気にいった詩をいくつか記録しておこう。
この世でほんとうに大事なもの(クォン・デウン作)
この世でほんとうに大事なものってどうして見えないのでしょう?
それは目だけで見ているからです
目だけで見たいものを見ているからなんです
じゃあ、ひとが目で見ているものってなんでしょう?
形のはっきりしたものだけです
流れたり、通りすぎたり、跡形もなく消えてしまったりするものを
感じとるには、みんな忙しすぎるのです
風にさらわれたり、蒸発したり
触れるとなくなってしまったりするものを大事に思う
心のゆとりがないんです
だから、しっかりと形になったものしか見えないんです
まるで、それらがこの世のすべてであるかのように
もし自分に目がなかったらと、考えてみてください
目のないまま太陽を見たら、まぶしさより、
まずその暖かさに気づくことでしょう
花を見たら、美しさよりさきに、香りを感じるはずです
そしてひとを見れば、顔かたちよりまず
そのひとの心を感じとるでしょう
感じるということは、心で見るということなんです
心で感じて、見るものってなんでしょう?
愛というもの、情というもの、そして思いやりというもの
それがこの世でほんとうに大事なものなんです
生きる(谷川俊太郎作)
生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木漏れ日がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみをすること
あなたと手をつなぐこと
生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと
生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ
生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまがすぎてゆくこと
生きているということ
いま生きてるということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ
パンフルートの今井勉さんの演奏を聞くのはこれで3回目だ。気さくな青年という感じで、けっこう日本酒もいける口だ。森田さんの朗読が少し早口だね。情感のこもったゆったりとした朗読のほうが詩に似あっていると思った。
演奏が済むと、今日のメイン企画、蓮池薫さんの登場だ。蓮池さんは1957年生まれというから僕よりも一つだけ年上で、1978年7月31日中央大学法学部在学中に新潟県柏崎市の海岸でデート中に拉致され、24年間の北朝鮮生活を送ることになった。その経緯を中心に話は進んでいく。彼の話を要約すると次のようなものだった。
大学3年のとき、彼女と海岸を歩いていました。若かったですから、多少の助平心もあって、夕方、人目のつかない場所を求めて歩きました。その時、少し離れたところを付かず離れずしてついてくる数人のグループがあることを自覚していました。静かなところまで歩き、海に向かって腰を下ろしました。他愛もないおしゃべりをしていると、目の前に男があらわれ、「タバコの火を貸してくれ」と声をかけてきました。火を貸してやると男は、ありがとうという風に手をあげて去っていきました。
後から思えばそれが合図だったようで、背後に何時の間にか工作員が忍び寄っており、突然、私は目を殴られました。強烈な衝撃と痛み、一撃で目を塞がれ、あっという間に組み敷かれてしまいました。一緒にいた彼女には手荒な真似はしなかったようですが、とにかく、海岸線から少し離れた窪地に引っ張って行かれ、押さえつけられ、長い時間そうしていました。暗くなるのを待っていたのです。
工作員は4、5人いたと思います。暗くなると真っ黒な海から静かにゴムボートが近づいてきました。私たちはずた袋のようなものを被され、ボートに乗せられました。エンジン音がとても静かなボートで母船に近づき、漁船のような船に乗せられ、荷物のように運ばれました。北朝鮮の港に着くまで、私たちはどこに連れて行かれようとしているのか分かりませんでした。港まで2日かかりました。船は大きく揺れ、船酔いした私は、ずた袋の中で吐瀉物にまみれ、パニックで思考回路は停止したままでした。
港に着くと、まず、身支度を整え、目の治療が始まりました。両目とも赤黒く腫れていたので、これでは人前に出せないということだったようです。彼女のことが気になりましたが、「女は必要ないので日本に返した」と説明されました。今なら嘘だと気づくと思いますが、若くて経験も不足していた私はそのことを信じました。
招待所に連れて行かれた私は、韓国語教育と平行して思想教育されていきますが、最初、映画を見せられました。サッカーの試合の映画で、北朝鮮と日本の試合で、北朝鮮が勝つところを見せられました。次には、バレーボールの試合の記録映画で、北朝鮮チームが日本やアメリカに勝つというものでした。北朝鮮が優れた国であることを印象づけようとしているなと思いながら映画を見ました。それらの映画の後、金日成主席の業績を称える映画を見ました。
そんな風にして、私は、徐々にチュチェ思想を学びました。チュチェ思想の根本原理は、「人間は世界と自分の運命の主人であり、それらを開拓する力も人間が持っている。」であり、人間の本質的特性は、「人間とは自主性、創造性、意識性を持った社会的存在である。」と理解され、社会の発展方向は「人間の自主性、創造性、意識性が高まり、それらが社会に影響する割合が高まる方向に発展する。」といわれています。私は、この考え方そのものは間違っているとは思いませんでした。ただ、北朝鮮では、人間の自主性が否定され、自分の運命の主人であることができないでいるだけです。それは、個人の上に国を置いているからですが、そのことが間違っているのだと思いました。もちろん、北にいる間はそんなことは言えませんけどね。
80年代に入ると、中東で拉致し、スパイにした女性が、潜入先で外国大使館に逃げ込むという事件が起きました。北が、いろいろな国で人を拉致し、スパイにしているということが表面化しました。その時に、私たちに対する対応が大きく変化しました。北朝鮮は、そんなことはしていないと否定していましたから、私たちの存在が見つかってはいけないということで、工作員として養成するという方針から、隠蔽するという方針に変わったのだと思います。
ある日、指導員の方が「結婚しないか?」と言ってきました。「誰とですか?」と聞くと、「実はお前の彼女は、日本に返してはいないんだ。」といいました。実は、言葉の端々に、もしかしたら日本に返してはいないんじゃないかと思わせる話が出てきていたので、薄々感ずいていたんです。第一、拉致された当事者を日本に返していたとしたら、大問題になっていますからね。指導員が声をかけてきて3日めにデートして、5日目には結婚式を挙げていました。そしてピョンヤンよりもずっと北の山村の招待所に引っ越すことになりました。
招待所の暮らしはそんなに苦しいものではありませんでした。80年代後半くらいから北朝鮮の庶民の暮らしは悪化していきますが、食糧の配給が滞ることはありませんでした。肉類も月に2kgとか3kgくらい定期的に届きました。お金も月に15ドルくらいですが支給されました。指導員の方と北のほうに旅行したとき、お弁当が傷んでしまったので、列車が停車中に近くの畑の脇に捨てました。それを子供が出てきて拾おうとするので、「それは腐りかけているのでやめなさい。」と叱り、換わりにお菓子をあげて別れたんですが、子どもの行動がおかしいのであとをつけると、捨てたお弁当をもう一度拾って村のほうに歩いていくんです。あとをつけていくと路上にシートを張った下にお母さんが寝ているんですね。その子は、お母さんに私が捨てた弁当を食べろといって渡していました。お菓子は兄弟たちと分けて食べていました。それくらい貧しいんですね。その旅行の時にあった少女のことが強く印象に残っていますが、私が見たところ小学校5,6年生にしか見えないんです。ところが年齢を尋ねたら17歳だというんです。栄養が不足して成長できないんです。そんな時代にも、食糧の配給が止まらなかったですから、ありがたいなと思っていました。
そんな招待所の暮らしの中で、子どもを授かったんですが、そのことが私の一番大きな問題でした。日本人の子どもということになると北朝鮮の人たちと交わることができず、寂しい人生を送ることになる。ではどうするか。指導員とも相談して、私たち夫婦は、朝鮮人として生きることを決意しました。朝鮮人としての過去を作らなければならないので、北部の村にいた私の父が、日本に強制連行され、日本で結婚し、3人の子供ができて、私はその真ん中の息子ということにしました。発音がおかしいのは、二十歳まで日本で過ごしたため、朝鮮語が下手なのだということにしました。こうして子どもたちは北朝鮮の子どもとして育っていきました。
招待所には決まった行事があって、毎週土曜日には反省文を書かなければなりませんでした。毎週のことですからそのうち書くことがなくなります。でも何かを書かなければならないでのどうしたかというと、「掃除をサボりました」とか、「勉強しませんでした」などと書くことを作っていました。月曜日は学習の日になっていて、チュチェ思想の勉強をしました。
2000年になると、今度は私たちが交渉の材料になりました。日本からの新たな経済支援を取り付けるために利用しようという方針が立てられたのだと思います。そうなると今度は、私たちを平壌に呼び戻し、自由を与えました。自由に町を歩き、朝鮮人と話し、自由に買い物もできました。
いよいよ一時帰国というとき、北朝鮮政府は、監視員を随行させました。しかし、日本政府のチャーター機なので、飛行機の中は日本なのです。監視員は私たちとはずっと離れた席が用意されました。監視員は、何とか理由をつけて近づいてこようとするのですが、日本政府の添乗員に、その度に排除されました。監視員からは連絡を取り合うよう指示されていましたが、結局、日本にいる間連絡が取れない状態になりました。日本政府の方も、日本の家族も北へ戻るなといいました。でも、子供のことが心配でなかなか決断できませんでした。北へ戻らなければならない日が近づいてきました。妻と相談するのですが、妻は、子どもたちを戻してくれる保障がないので、北へ戻ると主張していました。それでも、日本に留まりたいという思いが強くなり、子どもを取り返す最大限の努力をするという日本政府の話しを信じ、北朝鮮へ帰らないことを決断しました。
子どもたちには、私たちが在日だということにしていましたし、北朝鮮の教育を受けていましたので、私たちに裏切られたという気持ちになったようです。子供たちが帰ってくるまで長い時間が必要でした。最終的には、子どもたちも私たちと暮らす道を選び、日本に戻ってきました。日本に戻って子供たちがどうなるのか心配していましたが、子供のほうがずっと柔軟で、すぐに、日本の社会に馴染んでいきました。そして今、上の子どもは働いていますし、下の子は学生をしています。
私の仕事は、最初、役場に勤めました。隣の新卒の女性がダダダダっとコンピュータに向かって仕事をしている隣で、私は人差し指一本でポツリポツリと入力する有様で、これではいけないと思い、自分に何ができるかを考えました。そしたら、24年間韓半島で生きてきたという事実に行き着きました。幸い私の周りに、翻訳家がいたりして、私に翻訳の仕事の機会を与えてくれました。こうして私は韓国語の詩や小説を翻訳する仕事で飯を食っています。韓日の文化交流が進み、平和と友好の関係が作られていくことを期待し、その一助となればという思いで今の仕事に取り組んでいます。
僕が理解した蓮池薫さんの話は概ねこのような内容だった。講演のあとの質疑で、元岡山県議会議員のK藤さんが「拉致被害者の会の、自己中心的な主張に違和感を感じるがどう思われるか」というような質問をした。蓮池さんは「拉致被害者の会の主張は、独自の交渉ルートを持たない中で、ああやって扇情的に発言し続けないとマスコミから忘れられてしまいますから、仕方がない側面があると私は思っています。」と回答していた。
僕は、拉致被害者の会が正直好きではない。マスコミの取り上げ方もあると思うけれど、お涙頂戴的で、挑発的な発言を聞いているとなんとも嫌な気分になった。でも、今回、蓮池さんの話を聞いたおかげで、客観的に拉致問題を考えるきっかけとなった。少なくとも、今までのように嫌悪感を感じずに拉致被害者の会の主張を聞くことができると思う。これは、僕にとっては大きな変化だし、僕の成長だと思う。良い講演会に参加する機会を与えてくれたM戸さんとN島さんに感謝である。
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